
塚本晋也監督は、暴力が人間の身体や精神に残す影響を、鋭い映像と切実な人物描写で追い続けてきた映画作家です。代表作『鉄男』で世界に強い印象を残し、その後は都市に生きる人の不安や欲望、戦場に置かれた人間の加害と傷を作品ごとに描いてきました。
新作『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』は、ベトナム戦争に従軍したアレン・ネルソンの証言をもとに、戦場で人を殺した側が抱える苦痛と、帰還後も続く戦争の影を見つめる作品です。ヴェネチア国際映画祭での初上映では約8分間のスタンディングオベーションを受けたと報じられており、塚本監督が長年向き合ってきた戦争と人間の問題を、国境を越える題材で描いた新作として注目されています。
塚本晋也監督はどのような映画作家か
塚本晋也監督は、監督だけでなく脚本、撮影、編集も担う映画作家です。『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』でも、監督・脚本・撮影・編集を担当しています。
塚本監督の作品をたどるうえで重要なのは、暴力を単なる刺激として扱わず、人の感覚や行動、他者との関係をどう変えてしまうのかまで描こうとする点です。都市を舞台にした作品では、閉塞感や衝動がむき出しになる人物を映し出し、戦争映画では、戦闘の場面だけで終わらない暴力の連鎖に視線を向けています。
とくに近年の戦争を題材にした作品群では、戦争によって傷つく人だけでなく、命令や状況のなかで加害に加わった人間の苦痛も問い直しています。新作でも、戦争が始まれば人は殺される側だけでなく、殺す側にもなりうるという視点が物語の中心に置かれています。
塚本晋也監督の代表作から見る作風
塚本監督の映画は、作品ごとに舞台や時代が異なります。しかし、身体の感覚、抑えきれない衝動、暴力の記憶、人間の孤立といった主題がつながっています。新作を見る前に押さえたい代表作を紹介します。
『鉄男』:身体と都市が混ざり合う衝撃作
劇場映画デビュー作『鉄男』は1989年の作品です。塚本監督が国際的に知られる大きな契機となり、公式紹介でも世界に衝撃を与えた作品として位置付けられています。
題名が示す通り、身体と金属のイメージを前面に押し出した作品であり、都市的な圧迫感や制御できない変化を強い映像表現で描きます。塚本作品の出発点にある、肉体への鋭い関心と、現実が変容していくような感覚に触れたい人に向く一本です。
『六月の蛇』:欲望と閉塞を濃密に描く
2002年の『六月の蛇』は、ヴェネチア国際映画祭のコントロコレンテ部門で審査員特別大賞を受賞しました。塚本監督とヴェネチア国際映画祭との深い関係を示す作品の一つです。
戦争を直接の舞台にした作品ではありませんが、人が抱え込んだ欲望や恐怖、閉じた関係のなかで揺れ動く心理を描く点で、塚本作品の重要な一作です。人物の内面を、説明だけに頼らず映像の質感や空間の緊張で受け取る映画を見たい人に適しています。
『KOTOKO』:切実な視点で内面の揺らぎを見つめる
2011年の『KOTOKO』は、ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門で最高賞のオリゾンティ賞を受賞しました。塚本監督の作品には、人物が見ている世界と、周囲から見える現実とのずれを通じて、孤独や不安を浮かび上がらせるものがあります。
『KOTOKO』もまた、観客が人物の切迫した感覚に近づくような構成で、安定した日常の外側にある揺らぎを見せる作品です。塚本監督が人物の内面へどのように接近するのかを知る手がかりになります。
『野火』:戦争の極限で人間を見つめる
2014年の『野火』は、ヴェネチア国際映画祭のコンペティション部門に出品されました。塚本監督の戦争映画を考えるうえで欠かせない代表作です。
戦争は国家や歴史の出来事として語られがちですが、塚本監督は戦場にいる個々の人間が何を見て、何を恐れ、どのような行為に追い込まれるのかを描いてきました。戦争を遠い過去の物語としてではなく、人間の尊厳を揺るがす現実として受け止めたい人にとって重要な作品といえます。
『斬、』と『ほかげ』:暴力の連鎖と戦後の影
2018年の『斬、』はヴェネチア国際映画祭コンペティション部門、2023年の『ほかげ』はオリゾンティ・コンペティション部門に出品されました。
『斬、』は幕末を背景に侍たちの暴力性を描き、『ほかげ』は終戦直後の孤児を描いた作品です。時代設定は異なりますが、暴力が起きる瞬間だけでなく、その場にいる人々の暮らしや精神をどう壊していくのかを見つめる姿勢は共通しています。
『野火』から『斬、』『ほかげ』へと続く流れを知ると、『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』が、塚本監督にとって新たな題材であると同時に、長く掘り下げてきた問いにつながる作品であることが見えてきます。
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』のあらすじと注目点

『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』は、ベトナム帰還兵アレン・ネルソンによる著書を原作とする映画です。アレン・ネルソンは、貧困やアフリカ系アメリカ人への差別から抜け出すために海兵隊へ入り、ベトナム戦争に従軍します。
帰還後のアレンは、戦地での体験による精神的な苦痛を抱えます。物語では、退役軍人病院のダニエルズ医師との対話や、自身の戦争体験を語る活動を通して、アレンが過去と向き合おうとする姿が描かれます。
主演はロドニー・ヒックスで、ダニエルズ医師をジェフリー・ラッシュが演じます。リリー・フランキー、マーク・マーフィー、タチアナ・アリも出演します。タイ、ニューヨーク、日本、ベトナムの4か国で撮影された、116分の作品です。
新作が注目される理由は「加害の記憶」を正面から描くから

本作の大きな特徴は、戦争の被害だけでなく、戦場で殺す側に置かれた人物の記憶と苦痛を描くことです。主人公アレンは戦地での経験によって苦しみ、帰還後の生活にも深い影を落とします。
塚本監督は、戦争の恐ろしさを描くには被害者の視点だけでは不十分であり、人が加害者になりうる現実にも目を向ける必要があるという考えを示しています。この視点は、『野火』以降の戦争を扱う作品で重ねてきた、人間が極限状態で何をしてしまうのかという問いとつながります。
また、本作はアレンが戦地から戻った後の時間にも焦点を当てます。戦争は終結の日を迎えれば個人のなかでも終わるわけではないという問題意識が、医師との対話や講演活動を描く物語に表れています。戦闘の迫力だけではなく、戦争経験が生活や人間関係に残す影を見つめる映画として注目したい作品です。
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』はいつ公開される?
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』は、2026年9月11日にkino cinéma新宿ほかで公開予定です。上映劇場や前売券の情報は、『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』公式サイトで案内されています。
塚本晋也監督の映画に初めて触れる場合は、新作を起点にしながら、『野火』『斬、』『ほかげ』を続けて見ると、戦争と暴力をめぐる問題を作品ごとにどう描き分けてきたのかをたどりやすくなります。都市や身体をめぐる初期・中期の作風に関心がある人は、『鉄男』や『六月の蛇』にも目を向けると、塚本作品の幅広さを感じられるでしょう。
出典
- キノフィルムズ「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」
- MOVIE WALKER PRESS
- 朝日新聞
- NHK
- 山陽新聞デジタル
- GOETHE










